置き薬の歴史を紐解く
置き薬発祥の地
江戸時代に富山を治めていた二代目藩主・前田正甫は自ら薬を調合し質実剛健を尊ぶ名君でした。参勤交代で江戸城に参内するときも懐に薬を持参していたそうです。1690年、正甫公が江戸城に参内したとき、福島の三春城藩主・秋田河内守が腹痛を起こして苦しんでいた姿を見た正甫公は、自藩の「反魂丹(はんごんたん)」という妙薬を与えました。秋田河内守が反魂丹を服薬したところ、すぐに痛みが治まったそうです。その様子を見ていた他の藩主から「ぜひ自分の領内でもその薬を販売してほしい」と依頼されたのが、置き薬といわれる配置販売業(販売員が家庭や企業を訪問して医薬品の入った箱を設置し、次回の訪問時に使用した薬の代金を精算・集金)のルーツだといわれています。
苦難続きの置き薬
江戸時代からはじまった置き薬は、多くの販売員の努力によって確固たる地位を築いていきましたが、常に順調だったわけではありません。
明治維新後、近代化をすすめる政府は、西洋医学に基づく製薬の発展を期待していました。そのため、漢方医学を根拠とし多くの人から親しまれてきた置き薬は敬遠され、滅亡の危機に立たされたのです。「置き薬はなかなか成果が上がらない」として懲罰的な厳しい政策を取るようになり、明治3年には「売薬取締規則」が発布されました。これにより、大学東校で検査を受けて、免状をもらわなければ営業ができなくなったのです。さらに開発された有効な薬の専売は7年間しか認められず、商品の改善を強要されるようになりました。また、明治10年には「売買規則」によって売薬営業税や鑑札寮などの税を定めて、売薬業界にさらに圧力を加えてきたのです。
売薬業界の苦難はその後も続きます。明治16年には西南戦争による財政困難を補うために、政府は売薬印紙税を課しました。業者には致命的な打撃となった売薬税と売薬印紙税ですが、廃止されるのは大正15年、と長い間苦境に立たされてきました。しかし、その後も、昭和初期の経済恐慌や太平洋戦争の敗戦などで苦難の歴史は続いていきます。
昭和22年にようやく自由に薬を製造・配置できるようになり、昭和30年代には売薬業界全体が活性化するようになりました。ですが、国民皆保険制度が実施されると、軽い症状でも医者に行く人が増え、国民医療費の増大という新たな問題も浮上しました。
このように、置き薬の歴史は決して平坦なものではありません。「軽い病気は自分で治す」という自己治療の考えが徐々に浸透しほとんどの人が健康管理の一環として置き薬を常備するようになる現在まで、激しい波に翻弄されてきたのです。